こんにちは。関口美奈子です。
「子どもは欲しい。でも、とても無理です」。
そう話す若い夫婦に、私は何度も出会ってきました。子どもが嫌いなわけでも、愛情が薄いわけでもありません。ただ、現実が許してくれないのです。
少子化を「若者が子を望まなくなった」と語るのは、的外れだと私は思います。本当は、“子を持つ”ことの値段が、高くなりすぎたのです。私はこれを「子育ての贅沢品化」と呼んでいます。
かつて子どもは「資産」、いまは「費用」
少し長い時間軸で見てみましょう。
農業が暮らしの中心だった時代、子どもは大切な働き手でした。畑を手伝い、家業を継ぎ、年老いた親を支える——子を持つことは、家にとって“豊かさを生むもの”だったんですね。
ところが現代では、まるで逆転しました。子どもを育て上げるには、教育費を中心に数千万円かかるともいわれます(各種の養育費・教育費の試算より)。子はもはや、家計にとって巨大な「費用」の対象になりました。かつて資産だった子どもが、いまは長期の高額出費へと姿を変えた——この大転換こそが、少子化の根っこにあるんです。
なぜ、子どもはこんなに「高く」なったのか
では、なぜここまで高くなったのでしょう。
理由のひとつは、「ちゃんと育てる」の基準が、際限なく上がったことです。
習い事に、塾に、できれば大学まで。「人並みに」と思うだけで、求められる水準はどんどん引き上げられていきます。さらに、共働きが当たり前になった今、仕事を諦めたり時間を割いたりする“見えない費用”ものしかかる。
こうして、子ども一人にかける負担は膨らみ続けました。私はこれを「子育ての贅沢品化」と呼びます。普通に育てているつもりが、社会の基準のほうが上がり続け、いつのまにか子育てそれ自体が、相当な余裕がないと手の出せない“高級品”になってしまったんですね。
これは「親のわがまま」ではない
ここで、強くお伝えしたいことがあります。
子どもを持つことをためらう人を、「わがままだ」「贅沢だ」と責めるのは、まったくの筋違いです。
これまでのコラムでお話ししてきたとおり、かつて子育ては、家や地域、社会全体で分かち合うものでした。けれど今は、その負担のほとんどが、一組の夫婦の肩にのしかかっています。「婚姻の私事化」と同じことが、子育てでも起きているんですね。
社会が子育ての費用と責任を個人へ丸ごと預けておきながら、「産まないのは身勝手だ」と言うのは、あまりに酷です。あなたが贅沢なのではなく、子育てが贅沢品にされてしまった。順番を、取り違えてはいけません。
いちばん怖いのは、「持てる者しか持てない」社会
そして、贅沢品化がもたらす、いちばん怖い帰結があります。
それは、子どもが、経済的に余裕のある人だけのものになっていくということです。
高級品は、お金のある人しか買えません。子育てが高級品になれば、当然、同じことが起こります。本当は子を望んでいるのに、収入や雇用の不安から諦めざるをえない人が増えていく。
これは、一人ひとりの不幸であると同時に、社会にとっても大きな損失です。生まれてくるはずだった命が、家庭の経済力によって左右されてしまう。少子化は、こうして格差の問題とも深く結びついているんですね。
もう一度、子育てを「みんなのもの」へ
では、どうすればいいのでしょう。答えは、はっきりしています。
個人へ丸投げした子育てを、もう一度、社会全体で担い直すこと。これに尽きます。
教育の負担を軽くし、子育て世帯を経済で支え、地域で子を見守るしくみを取り戻す。子育ての値段を社会の力で引き下げ、“高級品”を“みんなが手にできるもの”へ戻していく。これは、まぎれもなく政治の、いちばん大切な仕事のひとつです。少子化対策とは、結局のところ、子育ての贅沢品化を解くことなんだと私は思います。
そして、私たち一人ひとりにできることもあります。それは、「完璧な親でなければ」という思い込みを、少しだけ手放すこと。立派に育てることより、まず一緒に笑って過ごすこと。子を持つ人を、地域で、職場で、あたたかく支えること。余裕を分け合い、先に手を差し伸べられる「持てる人」が増えることも、子育てのぬくもりを取り戻す確かな一歩です。
子どもは、家計の負担ではありません。社会みんなの未来そのものです。その当たり前を、もう一度、思い出していきたいですよね。
出典:子どもの養育費・教育費に関する各種試算(文部科学省「子供の学習費調査」等)、厚生労働省「人口動態統計」(合計特殊出生率の動向)。具体的な金額・数値を断定する記述は避け、傾向として記述しています。