こんにちは。関口美奈子です。
「親ガチャ」「人生ガチャ」。生まれる家も、容姿も、人生も、運まかせの“くじ引き”だと言わんばかりの、この言葉。眉をひそめる方も多いかもしれません。冷めている、努力を放棄している、と。
でも、私はそうは思いません。すべてを「ガチャ(運)」で語る若者は、冷笑的なのではなく、努力が報われにくくなった社会を、誰よりも正確に見抜いているのだと思うんです。私はこの感覚を「縁のガチャ化」と呼んでいます。
「ガチャ」という言葉が広がった理由
まず、なぜこの言葉がこれほど広がったのかを考えてみましょう。
「親ガチャ」とは、どんな家庭に生まれるかを自分では選べない、という感覚を、ゲームのくじ引きにたとえた言葉です。
そして今、その「ガチャ」は、生まれだけでなく、進学も、就職も、さらには出会いや結婚にまで広がっています。「結局、運だよね」と。
ここで大事なのは、言葉の軽さに惑わされないことです。若者がこれほど「運」を口にするのは、努力ではどうにもならない領域が、現実に増えていると肌で感じているから。言葉は流行りでも、その奥にある実感は、とても切実なんですね。
努力が、出発点に追いつけない時代
では、その実感には根拠があるのでしょうか。残念ながら、あります。
生まれた家庭の経済力が、受けられる教育を左右し、それが進学や就職、ひいては生涯の収入にまでつながっていく。こうした「出発点の格差」が固定されやすくなっていることは、さまざまな研究で指摘されています。
つまり、どんなに頑張っても、スタート地点の差を個人の努力だけで覆すのが難しくなってきた。「努力すれば報われる」という物語が、昔ほど通用しなくなっているんです。若者が「ガチャ」と言うのは、この現実を、きれいごとぬきで言い当てているだけ。彼らは怠けているのではなく、よく見ているんですね。
恋愛や結婚まで、「運ゲー」になっていく
そして、この感覚は、恋愛や結婚にも忍び込んでいます。
これを私は「縁のガチャ化」と呼びます。
これまでのコラムで見てきたように、恋愛や結婚は、いまや個人の努力だけでは動かしにくいものになりました。住む地域によって出会いの数が違う「縁の偏在」。経済力で結婚や子育ての可否が左右される現実。努力の手前に、地理や経済という“引いたくじ”が、どんと横たわっている。
そうなれば、人が「結局は運」と感じるのも無理はありません。努力ではどうにもならない構造を前にして、人は物事を「運」として受け止めることで、自分を守っているのです。「縁のガチャ化」とは、若者の諦めであると同時に、不公平な現実から心を守るための、せつない防御でもあるんですね。
「自己責任」で終わらせてはいけない
ここで、強くお伝えしたいことがあります。
「ガチャと言って甘えるな、努力しろ」と若者を叱るのは、いちばんやってはいけないことだ、と。
なぜなら、それは構造の問題を、まるごと個人の心がけのせいにしてしまうからです。出発点の格差という社会の課題を、「あなたの頑張りが足りない」の一言で個人に押しつける。これでは、何も解決しません。
「縁のガチャ化」が私たちに突きつけているのは、若者の心の弱さではなく、努力が報われる回路が、社会のなかで目詰まりを起こしているという事実です。責めるべきは、ガチャと言う若者ではなく、ガチャと言わざるをえない社会のほうなんです。
「運ゲー」を、もう一度「努力ゲー」に戻す
では、どうすればいいのでしょう。答えは、はっきりしています。
努力がちゃんと報われる回路を、社会の手で取り戻すこと。これに尽きます。
生まれた家庭にかかわらず学べる教育、やり直しのきく労働環境、出発点の差をならす再分配。引いたくじが悪くても挽回できる「流動性」のある社会をつくることは、まぎれもなく政治の中心的な仕事です。それは、恋愛や結婚を個人の運まかせから解き放つことにも、つながっていきます。
そして、私たち一人ひとりにもできることがあります。それは、目の前の人を「ガチャの結果」で値踏みしないこと。生まれや条件ではなく、その人自身の可能性を信じ、先に手を差し伸べる。縁を運のせいにせず、自分から結びにいく「持てる人」のふるまいは、ガチャ化した世界に、確かな温もりを取り戻します。
人生は、くじ引きで終わるには、あまりにも長く、豊かです。「運」と諦めかけたその先に、もう一度、努力と縁が実を結ぶ社会を。私は、そう信じていたいんですよね。
出典:世帯の経済状況と教育・所得の関連(世代間の社会移動・格差に関する各種研究)、内閣府の若者の意識に関する調査。具体的な数値を断定する記述は避け、傾向として記述しています。